ジュリウス・ニエレレ 目次 前半生 政治家へ 初代大統領 引退後 ニエレレの評価 脚註 参考文献 関連項目 案内メニューEncyclopedia of the Developing World, Volume 1Security and Democracy in Southern Africa“TIlE TREATY FOR EAST AFRICANCO·OPERATION ACT 1967”編歴WorldCat Identities90079494XX1477130cb11917965t(データ)1187357480000 0001 2100 7568n79056334jx20140117005232915w6t4453k02705090439382046
タンザニアの大統領タンザニアの紙幣の人物レーニン平和賞受賞者エディンバラ大学出身の人物1922年生1999年没
1922年7月19日1999年10月14日タンガニーカタンザニア政治家大統領少数民族ザナキ族首長ウガンダマケレレ大学エディンバラ大学スワヒリ語国家の父カトリック教徒ビクトリア湖中等教育1949年1952年イギリスエディンバラ大学歴史学経済学1954年1960年植民地1961年1962年1962年大統領制東アフリカザンジバル王国1964年ザンジバル革命ザンジバル人民共和国アベイド・カルメ連邦制汎アフリカ主義アフリカ社会主義ローデシアアパルトヘイト南アフリカ共和国ボツワナザンビア南部アフリカ開発共同体ゲリラセーシェル1967年社会主義ケネス・カウンダタンザン鉄道軍事顧問中華人民共和国人民服アルーシャ東アフリカ共同体初等教育公用語スワヒリ語農業旱魃1970年代石油危機原油価格1977年タンザニア革命党1978年ミルトン・オボテイディ・アミン1979年タンザニア軍カンパラタンザニア=ウガンダ戦争1980年代電気水道インフラストラクチュアトイレットペーパー塩1985年アリ・ハッサン・ムウィニ1990年タンザニア革命党アフリカ統一機構アフリカ連合1999年ウジャマー銀行企業独裁者アフリカスワヒリ語先生井上順孝東京大学出版会
ジュリウス・ニエレレ
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ジュリウス・カンバラゲ・ニエレレ Julius Kambarage Nyerere | |
タンザニア連合共和国 初代大統領 | |
任期 | 1964年10月29日 – 1985年11月5日 |
---|---|
タンガニーカ共和国 初代大統領 | |
任期 | 1962年12月9日 – 1964年10月29日 |
タンザニア連合共和国 初代首相 | |
任期 | 1961年5月1日 – 1962年1月22日 |
タンガニーカ共和国 初代首相 | |
任期 | 1960年9月2日 – 1961年5月1日 |
出生 | (1922-07-19) 1922年7月19日 イギリス領タンガニーカ、ブティアマ |
死去 | 1999年10月14日(1999-10-14)(77歳) イギリス、ロンドン |
政党 | タンガニーカ・アフリカ民族同盟(TANU) タンザニア革命党(CCM) |
ジュリウス・カンバラゲ・ニエレレ(Julius Kambarage Nyerere, 1922年7月19日-1999年10月14日)は、タンガニーカ及びタンザニアの政治家であり、同国の初代大統領。タンガニーカの少数民族、ザナキ族の首長の家系に生まれる[1]。現ウガンダのマケレレ大学卒業、エディンバラ大学修士取得[2]。スワヒリ語でBaba wa Taifa(国家の父)と呼ばれている[3]。カトリック教徒[3]。
目次
1 前半生
2 政治家へ
3 初代大統領
4 引退後
5 ニエレレの評価
6 脚註
6.1 註釈
6.2 出典
7 参考文献
8 関連項目
前半生
ビクトリア湖岸にて生まれ、国内での中等教育を経て、ウガンダのマケレレ大学卒業の後、教師として勤め、1949年-1952年にイギリスのエディンバラ大学大学院に留学し、歴史学と経済学を学んだ。
政治家へ
帰国後再び教職に戻ったが、同時に政治活動を開始。1954年にはタンガニーカ・アフリカ民族同盟(TANU)の創設者の1人となり党首に就任する。ニエレレは社会的平等、民族間の平和維持、タンガニーカの独立を掲げ政治活動を行い、その支持は全土へと急速に広まった。1960年の選挙でTANUが圧勝すると、ニエレレは植民地政府首相となり事実上政権を担う。1961年にタンガニーカの独立が承認されニエレレは初代首相となったが、翌1962年初めに辞任。独立により組織拡大などに追われていたTANUの建て直しなど、党務に専念した。
初代大統領
1962年にタンガニーカに大統領制が敷かれると、ニエレレは初代大統領に選出された。東アフリカを東アフリカ連邦に統合する構想を掲げ[4][5][6]、1963年12月に独立を達成したザンジバル王国が翌1964年1月のザンジバル革命によって崩壊し、新たに成立したザンジバル人民共和国のアベイド・カルメ大統領がザンジバルとタンガニーカの連邦制を申し出ると、ニエレレはこれを受けて4月にタンガニーカとザンジバルの連合国家の大統領となった[7]。
タンザニア連合共和国結成後のニエレレは、汎アフリカ主義とアフリカ社会主義の精神に基づいて白人国家ローデシアやアパルトヘイト体制の南アフリカ共和国と対決するボツワナ、ザンビアとフロントライン諸国(FLS)を結成してタンザニアの大統領を退くまで議長を務め[8]、ローデシアや南アフリカ共和国からの経済的な自立を目指して南部アフリカ開発共同体(SADC)の前身である南部アフリカ開発調整会議(SADCC)を設立させ[9]、アフリカ諸国の反政府ゲリラ組織に支持を与え[10]、セーシェルの軍事クーデターにも関与した[11][12][13]。ニエレレ治下の1960年代から1970年代にかけては1967年2月に発令されたアルーシャ宣言に基づき、タンザニアの社会主義化を進め、ザンビアのケネス・カウンダ大統領とともにタンザン鉄道の建設や軍事顧問の受け入れなどを通じて中華人民共和国との結びつきを強め、タンザニアスーツと呼ばれる中国の人民服に似た服装を愛用した[14]。同年6月には東アフリカ諸国と協力条約を締結し、タンザニアのアルーシャに東アフリカ共同体(EAC)の本部と事務局が設置された[15]。ニエレレは初等教育や成人教育を通じての、公用語としてのスワヒリ語教育の拡充も進めた[3]。一方、経済の自立化を図って農業の集団化を導入した。しかし、この計画は旱魃による食糧生産高の激減、強制的なウジャマー村への集団化、輸出作物生産の軽視、及び1970年代の石油危機による原油価格高騰で挫折する。
1977年には中国[16]の支援で建設されたアマーン・スタジアムにてTANUとザンジバルのアフロ・シラジ党(ASP)を統合してタンザニア革命党を設立した。
1978年には亡命したミルトン・オボテを匿っていたことから対立していた隣国ウガンダのイディ・アミン大統領がタンザニアに侵攻するも、逆にニエレレは猛反撃して1979年にタンザニア軍がウガンダの首都カンパラにまで進撃し(タンザニア=ウガンダ戦争)、アミン体制を打倒した[17]。
1980年代に入ると電気や水道などのインフラストラクチュアの崩壊に加え、トイレットペーパーや塩などの日用品さえも不足する事態に至った[17]。このため、ニエレレは経済運営失敗の責任を取り、1985年の大統領選出馬を辞退。ザンジバル出身のアリ・ハッサン・ムウィニを後任として大統領職を辞した。
引退後
大統領辞任後も、1990年まではタンザニア革命党党首の座にあり一定の政治力を保持した。また1963年のアフリカ統一機構(OAU、現アフリカ連合)設立の立役者の1人として、アフリカ諸国の内戦・独裁政治の終結に重要な役割を果たした。1999年に死去した。
ニエレレの評価
彼の政策は一般にウジャマー村構想として知られる社会主義政策であり、アフリカ民族社会独自の社会主義的農業経営方法であるウジャマーを重視し、銀行や企業の国営化などの統制経済により社会の平等化を図る彼の理想主義の現れであった。その政策は失敗したものの、他のアフリカの政治家にありがちだった権力にしがみつく独裁者にならず、失政の責任をとって辞した彼のアフリカの平和・平等・安定を思う真剣な姿から、彼を「アフリカの父」の1人として尊敬する動きも少なくない。ニエレレにはムワリムという愛称があるが、これはスワヒリ語で「先生」を意味するものである[18]。また、ニエレレは金銭に清廉な人物であった[19]。
ニエレレのウジャマー思想を紹介した論文に井上順孝「J.K.ニエレレ―ウジャマーの志向するもの」(柳川啓一編『講座宗教学5・聖と俗のかなた』、東京大学出版会、1978年)がある。
脚註
註釈
出典
^ 根本(2006b:73)
^ 根本(2006b:72)- ^ abc根本(2006b:74)
^ Arnold, Guy (1974). Kenyatta and the Politics of Kenya. London: Dent. ISBN 0-460-07878-X. p. 173
^ Assensoh, A. B. (1998). African Political Leadership: Jomo Kenyatta, Kwame Nkrumah, and Julius K. Nyerere. Malabar, Florida: Krieger Publishing Company. ISBN 9780894649110. p. 55
^ Kyle, Keith (1997). "The Politics of the Independence of Kenya". Contemporary British History. 11 (4): 42–65. doi:10.1080/13619469708581458. p. 58.
^ 根本(2006a:67-69)
^ Arnold, Guy (6 April 2010). The A to Z of the Non-Aligned Movement and Third World. Scarecrow Press. pp. 126–127. ISBN 9781461672319.
^ Joel D. Barkan(1994). Beyond Capitalism versus Socialism in Kenya and Tanzania. pp. 252
^ 根本(2006a:69)
^ Military power and politics in black Africa. Simon Baynham. p. 181
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^ “TIlE TREATY FOR EAST AFRICANCO·OPERATION ACT 1967” (PDF) (プレスリリース), Kenya Law, http://kenyalaw.org/lex/rest//db/kenyalex/Kenya/Legislation/English/Amendment%20Acts/No.%2031%20of%201967.pdf 2018-06-030閲覧。
^ Ogunsanwo, Alaba (1974). China's Policy in Africa, 1958-71. Cambridge: Cambridge University Press. p. 251.- ^ ab根本(2006a:71)
^ 根本(2006a:67)
^ 根本(2006b:75-76)
参考文献
- 根本利通 「抵抗から建国――独立前後」『タンザニアを知るための60章』 栗田和明、根本利通、明石書店〈エリア・スタディーズ〉、東京、2006年7月10日、初版第一刷、66-71頁。.mw-parser-output cite.citationfont-style:inherit.mw-parser-output .citation qquotes:"""""""'""'".mw-parser-output .citation .cs1-lock-free abackground:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Lock-green.svg/9px-Lock-green.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration abackground:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg/9px-Lock-gray-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription abackground:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Lock-red-alt-2.svg/9px-Lock-red-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registrationcolor:#555.mw-parser-output .cs1-subscription span,.mw-parser-output .cs1-registration spanborder-bottom:1px dotted;cursor:help.mw-parser-output .cs1-ws-icon abackground:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/12px-Wikisource-logo.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center.mw-parser-output code.cs1-codecolor:inherit;background:inherit;border:inherit;padding:inherit.mw-parser-output .cs1-hidden-errordisplay:none;font-size:100%.mw-parser-output .cs1-visible-errorfont-size:100%.mw-parser-output .cs1-maintdisplay:none;color:#33aa33;margin-left:0.3em.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration,.mw-parser-output .cs1-formatfont-size:95%.mw-parser-output .cs1-kern-left,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-leftpadding-left:0.2em.mw-parser-output .cs1-kern-right,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-rightpadding-right:0.2em
ISBN 4-7503-2354-3。 - 根本利通 「「国父」として――ニエレレ」『タンザニアを知るための60章』 栗田和明、根本利通、明石書店〈エリア・スタディーズ〉、東京、2006年7月10日、初版第一刷、72-77頁。
ISBN 4-7503-2354-3。 - 根本利通 「現在から未来へ――二代大統領以降」『タンザニアを知るための60章』 栗田和明、根本利通、明石書店〈エリア・スタディーズ〉、東京、2006年7月10日、初版第一刷、78-80頁。
ISBN 4-7503-2354-3。
関連項目
- ウジャマー
- 汎アフリカ主義
- アフリカ社会主義
- クワメ・エンクルマ
公職 | ||
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先代: ジュリウス・ニエレレ (タンガニーカ大統領) | タンザニア連合共和国大統領 初代:1964年 - 1985年 | 次代: アリ・ハッサン・ムウィニ |
先代: (新設) | タンガニーカ共和国大統領 初代:1962年 - 1964年 | 次代: ジュリウス・ニエレレ (タンザニア大統領) |
先代: ジュリウス・ニエレレ (タンガニーカ首相) | タンザニア連合共和国首相 初代:1961年 - 1962年 | 次代: ラシディ・カワワ |
先代: (新設) | タンガニーカ共和国首相 初代:1960年 - 1961年 | 次代: ジュリウス・ニエレレ (タンザニア首相) |
外交職 | ||
先代: メンギスツ・ハイレ・マリアム | アフリカ統一機構議長 第22代:1984年 - 1985年 | 次代: アブドゥ・ディウフ |
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